学校って、いじめまくっても逮捕されないよね。聖域なの?

いじめの問題が後を絶ちません。
その都度テレビでたくさん放送されたり、ネットをにぎわしていますが、難しい問題なので解決に至る気配はありません。
いじめの報道を見る度に、僕はひとつ違和感を感じます。学校というのは社会の聖域とみなされているのではないかと。
いじめの被害者が受ける仕打ちはとてもひどいものばかりです。
身体的、精神的に大きなダメージを受けます。
これと同じようなことを学校の外でしたら、加害者は即逮捕されます。
しかし、学校の中で繰り返される犯罪行為はよほどエスカレートして社会問題化しない限り加害者は逮捕されないのか。
ある意味、学校は聖域になっているのではないか。
社会では許されないことが、学校の中では平然と繰り返されることに僕はとても違和感を感じます。
いじめ問題を解決するのはとても困難だと思いますが、手始めとして、僕はまず、学校の聖域化をやめることが必要だと考えます。
社会でやってはいけないことは、学校でもやってはいけない。
単純なことだと思います。

学校の聖域化をやめるとは具体的にどういうことかというと

  • いじめが発覚したらすぐさま警察に連絡する
  • 教師が生徒の人格を教育することをあきらめる
  • 人間教育のかたちを考え直す

この3点です。

まず、なぜ現在でもいじめの問題に対して警察が介入してくることが少ないのか。
http://hutoukou2ch.web.fc2.com/ijime12.html
ここに書いてあるのがわかりやすいです。

通常の市民社会の論理で考えれば、被害者や目撃者が即座に110番通報して、学校に警察を呼ぶだけで、あっというまに一掃できるはずである。
しかし学校は、こころとこころの交わりによって、たがいのありとあらゆる気分やふるまいが、たがいの生の深い部分にまで沁み込みあう聖なる共同体であるとされ、その内部を市民社会の論理と切断しておく不断の努力によって、特殊な社会として保たれている。
学校の聖域扱いは、制度と政策に支えられた学校運営法として、さらに、われわれの社会の「あたりまえの善き慣習」として、定着している。
このような学校の聖域扱いが強固な「あたりまえ」になると、市民社会の論理によって学校内の暴力に対処することができなくなる。というよりも、「そんなことは思いもよらない」という現実感覚が蔓延する。

学校は人間の心の教育をも司る聖なる場所なので、一般社会の論理をもちこむべきではない、ということです。

たしかに、今までは、学校は人格を教育する場として機能していたと思います。
ですが現在は社会の変化によって、学校は人格教育にふさわしくない場所になってきました
教育の重点が、人間形成から成績重視に変わってきたということもあります。
教師の人間性が低下してきたという可能性もあります。
モンスターペアレンツの問題など保護者の意見が強くなってきたということもあります。
それとなにより教師が忙しすぎて、クラスの治安を維持する余裕がなくなってきたことも大きいでしょう。
ルポ/ある新人教師の死
日常の業務で忙殺される教師に、生徒のちょっとした変化に気づいて、いじめを予防するのは極めて難題でしょう。
今話題のドラマ「夜行観覧車」にも描かれているように、子供の心や人間関係を正確に観察するのは親にとってさえもとても難しいことです。

教師が忙しい現状を踏まえると、学校の治安維持は警察に頼らざるを得ないと思います
文部科学省も、各学校に対して、いじめなども問題で学校で対処できなくなったら、すぐに警察に連絡するよう通達しています。
平成24年11月2日 犯罪行為として取り扱われるべきと認められるいじめ事案に関する警察への相談・通報について(通知):文部科学省
大津いじめ事件でも、『教育現場と警察の間には長く「学校内の事件事故は学校で対処する」という不文律が存在していた』が、『東京学芸教職大学院の今井文男特任教授は「被害者の命を守り、加害者がより重大な事件を起こすのを防ぐためにも、警察が介入するのはいい流れだ」と評価』しています。
http://sankei.jp.msn.com/smp/west/west_affairs/news/121230/waf12123018000012-s.htm

では、学校が人格教育を放棄したとして、誰が子供の人間性を育てるのでしょうか。
今まで、日本人の心を育ててきたのは、家族・近所の人・学校・会社です。
現代ではこのどれもが機能しなくなってきているのではないでしょうか。
世帯の収入が低下してことによる共働き世帯の増加、核家族が多数をしめたことによって、子供を家で教育する機会自体が激減しています。
都市化によって共同体みんなで子供を育てるということもなくなってきました。
会社も変わってきて、仕事が単なる生活費を稼ぐ場になっています。
こうして見ると、現代日本は本当に人間教育の場が崩壊していると感じます。

これをどうやって改善していくのか。
これは極めて重大問題なので多くの人の知恵が必要です。
僕が今こうしろとか言うことはできません。
ただ色々な解決法がある中で、アメリカも同じような悩みを解決するために対策をしているようですのでご紹介しておきます。
CiNii 論文 -  アメリカ合衆国における連邦政府による人格教育政策の特質

人格教育運動は、1960年代以降の道徳教育方法の変化や若者の道徳の退廃状況に対して、アメリカが建国当初から重視してきた道徳教育を復興しようとする動きと捉えられる。
クリントン政権のもとでは、大統領自らが一般教書のなかで人格教育の重要性を訴える等、人格教育を推進していく連邦政府の姿勢が明確にされた。
これらを背景として、『アメリカ学校改善法』のなかでは、人格教育に対する補助金パイロット事業として制度化された。
ブッシュ政権のもとで、『落ちこぼれ防止法』が制定され、同法のもとで人格教育補助金事業は正式な事業として位置づけられ、さらに連邦教育省の戦略プランにも「強い人格と市民性」の促進が掲げられるなど、人格教育は連邦教育政策のなかで確たる地位を確立してきたといえる。

アメリカでは、政府が人格教育を主導しているようです。
問題点を明確に認識して、それを解決するための法律を制定し、補助金も出しています。
日本では、政府が何もしているとは言いませんが、今だに教師個人の資質に頼っているように思えます。

もう、教師個人の人柄で生徒を薫陶する時代は終わったのではないでしょうか。
そもそも、運よく金八先生のような教師に出会えたらラッキーで、ダメな教師にあたったら人間性は諦めろというのは無理がありました。
担任教師のあたりはずれで人生が決まってしまうようでは、教育のシステムとしては欠陥でしょう。
どんな教師であっても、一定の水準の人格教育ができるようにするべきです。
教師全員の教育レベルを上げるのが難しいなら、人格教育専門の教師を置くという手もあります。
とにかく、まずは現状で多忙を極める教師にこれ以上責任を負わせることのないようにすることが先決です。
そして教師が人格教育しない、とすれば、何かしら対策を考えなければならかくなります。
僕は、今の、対策を先送りにしながら、現場の教師に責任を押し付けるような世論に違和感を感じたのでこれを書いてみました。

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