さっき夜行観覧車を見て、「命の授業」を思い出した

夜行観覧車を見ていて、ある文章を思い出しました。

少し前に『女子高生が鶏を育てて解体して食べる 「命の授業」は残酷か?』が話題になりました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130305-00000306-bjournal-bus_all
これを読んで感じたことを書きます。

「命の授業」は、この女子高生たちだけの問題ではなく、わたしたちの生き方にも大きく関わる問題だと思います。
特に子供を持つ親にとっては、避けては通れない問題です。

この問題の最も注目すべき点は「人として正しい道」を選ぶか、「時代という長いものに巻かれる」のどちらを採るかということです。
現代人は皆、このふたつの生き方の間で生きています。
テレビドラマを見れば、ほとんどでこのテーマがでてきます。
例えば踊る大捜査線では主人公青島は、長いものに巻かれるのが当然とする職場の中で、常に人として正しいことを追求するというドラマです。

ドラマだけではなく、現実世界でもわたしたちは時々刻々と、このふたつのどちらをとるのか決めなければなりません
というより、どちらか一方を常にとりつづけるということは通常できないので、妥協してこのふたつの生き方の間のどこかに身を置くことになります。
なのでこのふたつの生き方というのはベクトルみたいなものです。
ふたつのベクトルのどこに位置するか。

『女子高生が鶏を育てて解体して食べる 「命の授業」は残酷か?』に戻りますと、この「命の授業」は人として正しい道のベクトルになります。
わたしたちは生き物を殺してそれを食べて生きています。
しかも自分の手では殺さずに、他人にそれを任せておいしいところだけを持っていきます。
しかしこの授業では生徒に、生き物の命を食べているという真実に向き合わせようとします。

この授業には批判もあるということです。
それはたしかにあるでしょう。
生徒に自分で育てた鶏を殺させるのですから。
こんなことをしなくても人は生きていけますし、する必要がないからです。
役割分担で、鳥をしめるのは誰かがやってくれます。(これを書いている僕も鳥をしめたことはありません)
しかもいつも自分が食べる動物を自分で殺していては日常生活を送れません。
動物を殺すということは人にとって気分が良くないのは言わずもがなです。
なので人は、食物の「いのち感」を感じないようにしてきました。
まるで工場で製造される製品かのように。
こうすれば日頃罪悪感を感じずにすみます。

「命の授業」は、この人間の欺瞞に逆らって、真実と向き合わせようとします。
この構図と似たものは、社会を見渡せばどこでも見つけられます。
例えば詐欺に近い手法で顧客から利益を奪おうとしている仕事をしている人でも、罪悪感を感じながら生活のために仕事をやめるわけにはいきません。
クラスでいじめられている人がいても、自分がいじめられるのを恐れて見て見ぬふりをしたり。
夜行観覧車のように。

ただ、このように長いものに巻かれている人を批判するということも難しいです。
誰もが「正しいこと」をやり続けることはできませんから。
社会で生きていると必ず、道徳的にやりたくないこともやらざるをえません。
フィクションとは違い、正しいことを主張してばかりではほとんどの場合職場から疎まれるでしょう。
「大人になる」というのは、長いものに巻かれることを受け入れるということです。

さて、歳をとり、大人になったひとたちは正義感を押し殺して暮らすことができます。
問題になるのは、子供ができ、子育てをする時です。
子供に、していいこと悪いことを教えますが、どの範囲までを悪いことにするのかが悩みどころです
いじめをしてはいけない、というのは悪いことですが、見て見ぬふりはどうでしょうか。
たいていの人は悪いこととしますが、見て見ぬふりを禁止するのは子供にとってつらいことではないでしょうか。
いじめにたいして立ち向かうのは非常にリスクがあります。
自分がいじめられて大変な目にあうかもしれません。
それに、理不尽なことは世の中に溢れています。
これに対していちいち異議を唱えていては身が持ちません。
実際それを徹底することは不可能なので、どこかで妥協せざるをえません。
というか、親は世の中の不正に対して立ち向かっているのでしょうか。
自分は長いものに巻かれているのに、そんな難しいことを子供に押し付けるべきでしょうか。

子供を育てる、悪いことを教えるというのは、とても難しく答えのでないことです。
この「命の授業」は、親たちが考えたくない、触れたくない問題に真正面から向かってくれた授業だと思います
あまりにも非人間化が進んだ現代社会に、「本当の姿」を考えさせてくれる授業です。
ただ「残酷だ」だけで済ますわけにはいかないものがあります。
たしかに、残酷と非難する親のように、鳥をしめることを知らない方が心の負担にはなりません。
しかし、そこにある真実から目をそらしてばかりでよいものでしょうか。

そんなことを夜行観覧車を見ながら考えていました。